グスタフ・クリムト (Gustav Klimt) 1862-1918
初期のキャリアと「ウィーン分離派」の設立
1862年、オーストリア・ウィーン郊外のバウムガルテンに生まれる。1883年(21歳)に弟エルンストらと共に「芸術家カンパニー」を設立し、伝統的な建築装飾の世界でキャリアをスタートさせた。
1894年(32歳)、ウィーン大学講堂の装飾天井画「哲学」「医学」「法学」の制作に着手。人間の苦悩や無意識を剥き出しに描いたその表現は「大学にふさわしくない」として教授陣らの猛烈な批判を浴び、国を二分する激しい論争を巻き起こした。この騒動を機に、クリムトは保守的なウィーン美術界と決別し、1897年(35歳)に新たな芸術の創造を目指して「ウィーン分離派」を設立、初代会長に就任した。
1898年の第1回分離派展では、ロダンやクノップフら当時の第一線の芸術家を招聘し、ウィーンの美術界に革新的な風を吹き込む。
「黄金様式」の確立と代表作
その後、金箔を多用し、絢爛豪華な装飾性と官能的な人物描写を融合させた独自の「黄金様式(Golden Phase)」を確立。この時期に描かれた《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》や、永遠の愛を象徴する《接吻》の発表によって、その名声は不動のものとなった。
世紀末ウィーンを象徴する「生と死」
1911年のローマ国際美術展では《死と生》が大賞を受賞。世紀末ウィーンの爛熟した文化を象徴するその画風は、エロスとタナトス(生と死)の狭間で揺れ動く人間の本質を鋭く捉えている。写実と抽象、静寂と装飾が奇跡的なバランスで同居するクリムトの作品は、現代においても圧倒的な美の存在感を放ち、世紀を超えて世界中の人々を魅了し続けている。
主な作品収蔵先
ベルヴェデーレ宮殿オーストリア・ギャラリー(ウィーン)、レオポルト美術館(ウィーン)、ノイエ・ガレリエ(ニューヨーク)、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、愛知県美術館 ほか

