堀文子 (Fumiko Hori) 1918-2019
日本画への道と前衛的な挑戦
1918年(大正7年)、東京都に生まれる。1940年(22歳)に女子美術専門学校(現・女子美術大学)を卒業。在学中から新美術人協会に出品し、戦後は創造美術や新制作協会で活動した。伝統的な様式にとらわれず、自然をありのままに捉えた力強い表現で、新しい日本画の創造を目指した。1952年(34歳)には、優れた女流日本画家に贈られる「第2回上村松園賞」を受賞し高く評価された。
「一所不住」の信条と世界放浪
1960年、42歳の時に外交官の夫と死別。その深い悲しみから抜け出すため、1961年から約3年間にわたりエジプト、ヨーロッパ、アメリカ、メキシコなどを一人で放浪した。帰国後も一つの場所に安住しない「一所不住(いっしょふじゅう)」を信条とし、神奈川県大磯、長野県軽井沢、さらにはイタリア・アレッツォへと拠点を移しながら創作を続けた。
また、1950年代から70年代にかけては絵本や挿絵の世界でも活躍。1972年(54歳)には、絵本『くるみ割り人形』で第9回ボローニャ国際絵本原画展グラフィック賞を受賞し、国際的な名声を得た。
「花の画家」としての晩年とヒマラヤの青いケシ
1974年(56歳)に多摩美術大学教授(後に客員教授)に就任し、後進の指導にあたる。晩年は、自然の中に息づく命や花鳥、名もなき植物たちを愛情深く描き「花の画家」と呼ばれた。
その探求心は衰えず、2000年、81歳にして幻の高山植物「ブルーポピー」を求めてヒマラヤの標高5,000メートル近くまで登り、命がけで代表作『幻の花 ブルーポピー』を描き上げた。100歳になる直前まで筆を握り続け、2019年に100歳で逝去。群れず、慣れず、頼らない、その気高く自由な生き様に、今なお多くの人々が魅了されている。
主な作品収蔵先
名都美術館(愛知県)、成川美術館(神奈川県箱根)、信濃美術館(長野県)、酒田市美術館(山形県)、韮崎大村美術館(山梨県)など。

