ジャン=フランソワ・ミレー × フェリックス・ブラックモン 「Le printemps」
種まく人、晩鐘などで知られるバルビゾン派の代表画家・ミレー。パステル画をもとに、ミレーの死後ブラックモンが作ったエッチング作品です。
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■技法: エッチング(銅版画)
■画寸(約): タテ 50 × ヨコ 35.2 cm
■額寸(約): タテ 87 × ヨコ 68.5 cm
■サインなど: 版画制作者ブラックモンの鉛筆サイン、原作者ミレーの版上サイン、
右上に版元の名前、住所、および出版年月記載: publie par Georges Petit, 12, rue Godot de Mauroy, Paris, Octobre 1888
■状態: 余白に薄いシミ、点状のシミ有り
■その他: 額付き
フェリックス・ブラックモン (Felix Bracquemond) 1833~1914
フランス・パリ生まれ
アングルの弟子ジョゼフ・ギシャールに師事。
1952年にサロンに出品するも、次第に油彩より版画へと関心を移す。
銅版画はほとんど独学であったが、優れたエッチング作家として知られるようになる。
1860年には「腐食銅版画家協会」 の創立メンバーとなり、
<衰退しつつあったエッチングの復活を担った。
印象派の画家達と親交があり、第1回印象派展に出展。
マネ、ドガ、ピサロなどとは特に関係が深く、版画の技術を教えた。
印刷業者のドラートルの家で、日本から送られてきた陶器の梱包材として使われていた『北斎漫画』の絵本を発見。
それを印象派の 友人達に伝えたことがフランスでのジャポニスム発端とされる。
自ら収集した 浮世絵を参考に、日本美術の要素を作品にとりいれ、
また、1866年からは食器のデザインもおこなうようになった。
ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-Francois Millet ) 1814~1875
フランス・グリュシー生まれ
ノルマンディー地方の農家の子として生まれる。
19歳でシェルブールの肖像画家ムシュルに師事。
父の死で画家となることをあきらめるが祖母のすすめでラングロワに師事。
ラングロワの推薦により1837年シェルブール市の奨学金を得て、パリのエコール・デ・ボーザールの巨匠ポール・ドラローシュのアトリエに入門。
1839年ローマ賞に落選して退学後、肖像画、看板絵、模索画などを描いて生計を立てる。
1849年からパリ郊外バルビゾン村に移住。
自らも農民として働きながら、農民の生活やその周辺を描き続けた。
画家として栄光をつかんだのは晩年になってからで、それまでは貧しい生活を送る。
同じくバルビゾン村に移り住んだルソーやコローらとともにバルビゾン派と呼ばれるが、ミレーは他のバルビゾン派の画家と違い、農民生活を叙情的に描いている。
中でも素描やデッサンは評価・価値ともに高く多くの画家たちの手本であり憧れでもあった。